「どっちがいい?」と聞かれたとき、本当はちゃんと思うことがあったのに、「どっちでもいいです」と答えてしまったこと、ありませんか。
レストランで友人にメニューを選んでもらい、「それでいいです」と言いながら、心のどこかで「あ、でもやっぱり……」とつぶやいていた、あの感じ。会議で手を挙げようとして、でも結局黙っていた、あの感じ。
自分の意見が言えない、というのは、単なる「性格の問題」じゃないと最近よく思います。もっと深いところに、何かがある気がして。今回はそのことを、一緒にゆっくり考えてみたいんです。🤔
「それでいいです」——あの瞬間の感覚、覚えていますか?
言いたいことはあったのに、黙ってしまったあの日
正直に言うと、かつての自分はかなり「それでいいです」な人間でした。
友人の誘いに「いいよ、どこでも」と言いながら、本当は行きたくない場所だったり。上司の方針に「わかりました」と答えながら、腑に落ちていなかったり。
言えないというより、言う前に何かが止めてくる感じ、とでも言えばいいでしょうか。「でもこれを言ったら……」という想像が一瞬でブワっと広がって、言葉が引っ込んでいくんですよね。
当時の自分は「自分が我慢すればうまくいく」と思っていた節があって、今思うとなかなか健気というか、ちょっと悲しい話でもあるんですが(笑)
「また言えなかった」という静かな後悔
意見を飲み込んだその瞬間は、それほど大きな出来事じゃない。でも、夜になってふとそれを思い出すことがある。
「あのとき言えばよかったな」——そういう、静かで小さな後悔が積み重なっていく感じ、知っている人もいるんじゃないでしょうか。声に出さなかった意見は消えるわけじゃなくて、どこかに残り続けるんですよね。
なぜ人は自分の意見を飲み込んでしまうのか?
「否定されたくない」という根っこにある恐れ
心理学的な観点からよく言われるのは、「意見の否定を、自分自身の否定として受け取ってしまう」という話です。
「この案はちょっと違うんじゃないか」と言われたとき、頭では「意見の話をされているだけ」とわかっていても、どこか「自分という人間を否定された」ように感じてしまう。その恐れが、意見を言う前から発動してしまうんですよね。
だから事前に「言わない」という選択をすることで、傷つくリスクを回避しようとする。これはある意味、とても合理的な自己防衛でもあります。
嫌われることへの本能的な警戒心
もう少し大きな視点で見ると、人間はそもそも「集団の中で生きていくことで生き延びてきた生き物」です。グループから排除されることは、かつては命に関わる問題でした。
そのため、人から嫌われる・怒らせる・関係がこじれる、といったシグナルに対して、私たちの脳はかなり敏感に反応するようにできているんです。意見を言うことで「波風が立つかも」と感じた瞬間、その警戒システムが動き出す。理性より先に、です。
意見が言えないのは「弱いから」じゃなくて、人間として当然の防衛反応でもある——そう考えると、少し楽になりませんか?
「自分の意見には価値がない」という思い込み
もうひとつ、よく見られるのが「どうせ自分の意見なんて……」という感覚です。これは自己評価の低さと深く結びついていて、「自分はそこまで賢くないから」「経験も少ないから」「言っても変わらないから」というふうに、意見を出す前から結果を諦めてしまうパターン。
これは生育環境の影響も大きいと言われています。親や先生に「そんなこと言わなくていい」と制されてきた経験が積み重なると、「自分の声には意味がない」という感覚が、無意識のうちに根付いていくことがあるんですよね。
日本の「空気」が育てたもの
「出る杭は打たれる」文化と意見の抑圧
ここで少し社会的な話もしてみたいと思います。
日本には「空気を読む」「出る杭は打たれる」という言葉が昔からあって、「周りに合わせることが美徳」とされてきた文化的な背景があります。これは欧米と比べると顕著で、たとえば学校の授業ひとつとっても、日本は「正解を答える」ことが求められる場面が多く、「自分はどう思うか」を考える機会は相対的に少ない。
社会人になってから急に「自分の意見を言ってください」と求められても、戸惑うのは当然かもしれません。そういう練習を、あまりしてこなかったわけですから。🌿
学校で教わらなかった「意見を言う練習」
「意見を言う」というのは、実はスキルです。生まれついての性格だけで決まるものじゃない。
でも日本の学校教育では、ディベートの授業はまだ少なく、「自分の考えを言葉にする」という反復練習の機会は限られていました。意見を言えない人が多いとしたら、それは個人の問題というより、そういう練習の場が十分になかった、という社会的な背景もある気がします。
「意見を言えない自分」は弱いのか?
沈黙にも、ちゃんと意味がある
ここで少し立ち止まって考えたいのですが——「意見を言えること」が、必ずしも「正しい姿」なのでしょうか?
声の大きい人が場を制するような場面、ありますよね。でも、黙って聞いている人の中に、実はいちばん深く考えている人がいたりもする。沈黙は弱さじゃなくて、慎重さだったり、思慮深さだったりすることもある。
「意見を言えない=問題がある」という見方に、自分はちょっと疑問を持っています。言えないことには言えないなりの理由があって、その理由の中には、繊細さや優しさも混じっているんじゃないかなと。
「穏やかさ」と「自己消去」は別物だという話
ただ、ここで一つ大事な区別をしたい。
「穏やかでいたい」「場を荒らしたくない」という気持ちと、「どうせ自分なんか」と自分の存在ごと消そうとしていることとは、まったく別の話です。
前者は選択で、後者は痛みからくる回避。本当はしんどいのに、「いいですよ」「なんでも」と言い続けることは、自分に対して少し不誠実でもある——そんなふうにも思うんですよね。
では、どこから変えていけるのか?
「正しい答え」を探すのをやめてみる
意見を言えない人の多くは、「間違えることへの恐れ」が根底にあります。だから「正しいことを言わなきゃ」とプレッシャーを感じてしまう。
でも、意見に正解なんてないんですよね。特に日常会話や職場の雑談レベルでは、「こう思う」「自分はこっちが好き」程度のことで、正誤は関係ない。
「正しい答えを言わなきゃ」ではなく、「ちょっと思ったことを、試しに口にしてみる」という感覚で始めると、少し気が楽になるかもしれません。
小さな「私はこう思う」から始める
いきなり会議で発言しなくていいです。
「今日の夜ごはん、自分はパスタがいい」とか、「この映画、なんか好きだった」とか、そういうちっちゃいことから「自分はこう思う」を言葉にしていくだけで、かなり変わると言われています。
自分の感覚を言語化する習慣が育つと、少しずつ「意見を持っている自分」が実感できるようになってくる。大げさに聞こえるかもしれませんが、日記やメモでもいい。声に出さなくても、書くだけでも、意外と効果があるんですよね。✍️
意見を言えなかった自分を、責めなくていい
それはあなたが臆病だからじゃない
ここまで読んできて、少し気が楽になった人もいれば、「でもやっぱり自分はダメだ」と感じている人もいるかもしれません。
でも、改めて言いたいのは——意見を言えなかったのは、あなたが臆病だったからじゃないということです。
嫌われたくなかったのは、人とつながっていたかったから。黙っていたのは、その場を大切にしたかったから。そういう側面が、絶対にある。
もちろん、それで自分がしんどくなっているなら、少しずつ変えていく必要はあるかもしれない。でもそれは、「ダメな自分を直す」じゃなくて、「もう少しだけ自分を信頼してみる」という方向の話だと思っています。
「それでいいです」の先に、何を感じていましたか?
最後にひとつ、問いかけで終わらせてください。
あなたが「それでいいです」と言ったとき——その直後に、どんな気持ちがありましたか?
ほっとしていましたか。それとも、何かちょっとだけ、モヤっとしていましたか。そのモヤモヤの正体が、実はあなたの「本当の意見」だったりするかもしれません。
意見を言えるか言えないか、よりも先に、自分の中に何を感じているかに気づくこと——それが、一番最初の一歩なのかもしれないなと、今の自分は思っています。🌱
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次回予告
次回は「人はなぜ断れないのか——『いいですよ』と言い続けてしまう理由を考えてみる」について書こうと思います。今回の「意見が言えない」と深くつながるテーマ、ぜひまた一緒に考えてみてください。


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