「最近どう?」って聞かれて、「まあ、ぼちぼちのんびりやってるよ」って答えると、なんとなく気まずい。
でも「いやあ、もう毎日バタバタで!」って言うと、なぜかちょっとホッとする——。
そんな経験、ありませんか? 私にはあります。たぶん、けっこうな頻度で。忙しさを報告しているとき、どこか”よくやってる自分”を確認しているような気持ちになるんですよね。おかしいな、と思いながらも。
なぜ人は「忙しい」ことを誇りに思ってしまうのか。そして、なぜそれが”依存”になっていくのか。今日はそのあたりを、一緒にゆっくり考えてみたいと思います。
「忙しいんだよね」って、ちょっと誇らしくなる瞬間、ありませんか?
「忙しい」と言うとき、何かを証明したくなっている
思い返してみると、自分が「忙しい」と口にするとき、そこには二種類の感情が混ざっていることに気づきます。
ひとつは純粋な報告。本当に手が追いつかなくて、ただ事実として伝えているとき。もうひとつは、ちょっと違う。どこかで「忙しい自分」を見せたい気持ちがある。
**「忙しい=必要とされている」「忙しい=頑張っている」——**そういう等式が、いつの間にか頭のなかに刷り込まれているのかもしれません。だから「忙しい」は、単なる状態報告じゃなくて、自分の価値を証明するための言葉になっていく。
ちょっと笑えない話ですよね。
充実してる証拠、のはずなのに、なぜかしんどい
でも奇妙なことに、「忙しい」と言えば言うほど、なんとなく虚しくなることがあります。予定を詰め込んで、バタバタ動き回って、夜ぐったりしながら「あれ、今日なんで私こんなに忙しくしてたんだろう」って思う夜。
充実のはずが、なぜか空っぽな感じがする。
それはたぶん、忙しさそのものは「充実」とは別物だから、なんですよね。でもそれに気づくのって、立ち止まったときだけで。動いているあいだは、ごまかせてしまうんです。
忙しさがステータスになった時代の話
「ひまな人=価値がない人」という空気が生まれたのはなぜか
生産性の研究者シルビア・ベレッツァらの研究によると、特にアメリカでは「忙しいことはステータスの象徴」とみなされる傾向があるそうです。
日本でも似たような空気、ありますよね。「暇だ」と言うと、なんとなく申し訳なさそうにしなきゃいけない雰囲気。暇=仕事をしていない=価値が低い、みたいな連想が、職場にも日常にもじんわり漂っている。😌
思えば、高度経済成長期から日本社会は「働くことが美徳」という価値観を根深く持ち続けてきました。「24時間戦えますか」なんてCMが本気で流れていた時代の残像が、まだどこかに残っているのかもしれません。
「忙しい」は現代語で「私は必要とされています」という意味かもしれない
誰かに「忙しいんだよね〜」と言うとき、その言葉の裏側には何があるでしょう。
「私はいろんなところから頼られています」「私の時間は価値があります」「私は社会に必要とされています」——そういうメッセージが、「忙しい」という一言に圧縮されているのかもしれません。
もちろん本人はそんなつもりじゃないでしょう。ただ何気なく言っているだけで。でも、言葉というのは不思議なもので、使い続けるうちに、使う理由のほうが変わっていくことがあります。
忙しさへの依存——「動いていないと怖い」の正体
スケジュールが空くと、なんとなく不安になる
これが、私にとっていちばん身に覚えのある感覚なんです。
週末に急にぽっかり予定が空いた日。最初は「やった、ゆっくりできる!」と思うんですよ。でも数時間もすると、どこかそわそわしてくる。何かしなきゃ、という感覚。ただぼーっとしていることへの、罪悪感とも違う、不思議な落ち着かなさ。
これ、心理学では「行動依存」と呼ばれることがあります。「何かをしている状態」が基準になってしまって、何もしていない状態がむしろ異常に感じてしまう。忙しさは依存性のある物質じゃないけれど、「動き続けること」そのものに安心感を覚えるようになってしまうのかもしれません。
立ち止まると見えてしまうものがある、という話
「忙しい」という漢字を分解すると、「心を亡くす」と書きます。🈳
これ、誰かに聞いて「うまいこと言うなあ」と思ったんですが、よく考えると怖い話でもある。
忙しくしているとき、私たちは心を使っていないかもしれない。いや、正確には——立ち止まったときに見えてしまうものから目を背けるために、忙しくしているのかもしれない。
それが何なのかは、人によって違うと思います。将来への不安かもしれないし、人間関係のもつれかもしれないし、「自分は何のために生きているんだろう」という問いかもしれない。
「忙しいです」は、何かから目をそらすための言葉だったりする
忙しさは、考えなくていい理由になる
これは正直、自分自身の話をしています。
忙しい時期って、余計なことを考えなくて済むんですよ。目の前のタスクをこなすことで精一杯になれるから、「自分はこれでいいのか」みたいな問いが浮かびにくい。
ある意味、忙しさは思考停止の快適さを提供してくれます。動いている自分は正しい、頑張っている自分は正しい——そう思えるから、立ち止まらなくてもいい。考えなくてもいい。忙しさが、免罪符になる。
今思うと、若い頃の自分は確かにそれをやっていたなあ、と思います(苦笑)。
本当に向き合いたいことを、後回しにできる便利な道具
「忙しくてさ、それどころじゃなくて」という言葉、何回言ったか。
でもそれって、「その問いとはまだ向き合いたくないんです」という宣言だったりする。
人生について考えたい。関係を見直したい。自分のやりたいことを探したい。でも忙しいから。——「忙しいから」は、先送りのための最強の言葉です。便利だからこそ、知らないうちに使いすぎてしまう。
「忙しくない自分」が怖い、という感覚について
暇になった瞬間に湧いてくる「自分って何者?」という問い
これが、忙しさへの依存の核心じゃないかと思うんです。
仕事もある、予定もある、頼まれごともある——そういう状態のとき、私たちは「自分」を説明できる。でも、それが全部なくなったとき。何もすることがなくて、ただそこにいるだけのとき。
「私って、何者なんだろう」という問いが、じわじわと浮かんでくる。🌊
それが怖い。だから動き続ける。忙しくしていれば、その問いを先送りにできるから。
哲学者のブレーズ・パスカルは、「人間の不幸は、部屋でじっとしていられないことから来ている」と書いたそうです。400年前の言葉が、今も刺さるのはなぜだろうと思います。
忙しさを手放したとき、残るものは何だろう
これ、けっこう怖い問いなんですよ。
役職も、予定も、「忙しい」という看板も全部取り除いて——残る「自分」は何だろう。
でもたぶん、その怖さと向き合うことが、本当の意味で自分と仲良くなる入口なんじゃないか、とも思います。忙しさに自分の価値を預けていると、忙しさがなくなったとき、自分の価値まで消えたような気がしてしまう。それはちょっと、しんどい生き方かもしれない。
忙しさと上手につきあうために、今の私が思うこと
「ゆっくりしてる自分」を責めないでみる
今日のところ、「忙しさへの依存をやめましょう」と言いたいわけではありません。人によって忙しさとのつきあい方は違うし、忙しさが活力になっている人もたくさんいる。
ただ、ひとつだけ。
「ゆっくりしている自分」を責めなくてもいい、とは思っています。
何もしていない時間は、無駄じゃない。ぼーっとしている時間が、考えを整理してくれることもある。「暇だ」と感じることは、サボっている証拠じゃない。
それが頭ではわかっていても、なんとなく落ち着かないなら——それは社会から刷り込まれた「忙しさ信仰」が、まだそこにあるだけかもしれません。
忙しさは目的じゃなく、手段だったはず
あらためて考えてみると、忙しいことそのものが目的だった日って、そんなにないはずなんですよね。
何かを達成したくて動いていた。誰かのために頑張っていた。好きなことに没頭していた——その結果として、忙しくなっていた。
忙しさは「自分が生きている証拠」ではなく、何かに向かっているときに生まれる副産物なんじゃないかな、と今は思っています。
目的と手段が逆になったとき、人は「忙しいけど、なんか虚しい」という感覚に陥るのかもしれません。
まとめにかえて——問いを持ち帰ってもらえますか
人はなぜ「忙しい」ことを誇りに思うのか。
承認欲求、ステータス意識、行動への依存、自分の実存的な問いから目をそらしたい気持ち——いろんな答えが絡まっていて、「これだ」とは言いにくい。
ただひとつ確かなのは、忙しさに誇りを感じているとき、私たちは何かを証明しようとしているということ。
誰に?
たぶん、自分自身に。
あなたは今、忙しいですか? そして、その忙しさは——本当に自分が望んだものでしょうか。
次回は「人はなぜ”スマホを見てしまう”のか——やめたいのにやめられない習慣の正体」について書こうと思っています。


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