「言えばよかった」と思いながら、眠れなかった夜が何度かある。
会議で上司の提案に「うーん、どうなんだろう」と思ったのに、なんとなく頷いた。友達に誘われて「正直、今日は気が進まないな」と感じたのに、「いいよ!」と返事をした。家族に「ちょっとそれは違うと思う」と言いたかったのに、黙って話を聞いた。
そのあと一人になって、なんで言えなかったんだろう、とぼんやり天井を見上げる。
あの感覚、なんか覚えがありませんか?
「本当のことが言えない」——その感覚、あなただけじゃない
会議のあとに一人でリプレイしてしまう夜
社会人になって最初に気づいたのが、「心の中にもう一人の自分がいる」ということだった。
会議中に発言している自分と、その発言を見ながら「本当はそうじゃないんだけどな」と思っている自分。それが同時に存在して、どちらが本当の自分なのかよくわからなくなるときがある。帰り道に一人でそのシーンを巻き戻して、「ここでこう言えばよかった」とひとりドラマの脚本を書き直す。でも次の日になったら、また同じことをしている(笑
本音を言えなかったことへの後悔って、妙にしつこいんですよね。
「言えばよかった」より「言わなくてよかった」のほうが多い気がする
でもよく考えると、全部の「言えなかった」が後悔かというと、そうでもない。
「あそこで言わなくてよかった」「黙っておいたほうがうまくいった」という場面も、同じくらいあったりする。本音を隠すって、必ずしも「弱さ」や「臆病さ」だけじゃないのかもしれない。
もしかしたら、「言わない」という選択にも、何かちゃんとした理由があるんじゃないかな。そのことを、少し一緒に考えてみたいんです。
なぜ人は本音を隠してしまうのか——心と脳の話
脳が「言うな」とブレーキを踏む瞬間
「本当のことを言いたい」と思っているのに、口を開く前に何かが止める。あの感覚の正体は何なのか。
心理学では、これを自己効力感の低下や防衛本能の発動と呼んだりする。要するに、脳が「この発言はリスクが高い」と判断して、ブレーキをかけているんですね。
「間違ってたら恥ずかしい」「空気が悪くなったら嫌だ」「浮いてしまうかもしれない」——これらは全部、脳が瞬時に計算した「言ったあとのリスク」です。人間の脳は、未来の傷つきを避けようと、ものすごくすばやく動いている。本音を隠すのは、ある意味では自分を守るための本能なんですよね。
理性より先に、身体が動いてしまう感じ。あれはそういう仕組みらしい。
過去の傷が今の口を閉じさせる
もう少し深いところにある話をすると、「本音が言えない」背景には、過去の経験が絡んでいることが多い。
子どもの頃に正直に言ったら怒られた。本音を話したら笑われた。「そんなこと思ってるの?」と引かれた経験がある。そういう記憶が積み重なると、だんだん「本音を言うと傷つく」という回路が出来上がっていく。
これは意志の問題じゃなくて、学習の結果なんです。「本音は危険だ」と学んでしまった自分が、無意識のうちに自分を守ろうとしている。心理学者の言葉を借りるなら、「あの時傷ついたから、もう本音は言わない方がいい」と無意識に決めてしまっている状態。
過去の自分が、今の自分に口にガムテープを貼っている——そんなイメージかもしれない。
自分でも自分の本音がわからない、という状態
ただ、「言えない」よりもっとやっかいなのが、「言えない」のではなく「そもそも自分の本音が何かわからない」という状態。
ずっと誰かに合わせてきた人は、「自分がどうしたいか」よりも「相手がどうしてほしいか」を先に考えることが習慣になっていたりする。そうなると、いざ「あなたはどう思う?」と聞かれても、自分の中に答えがないような感覚になる。
これは「自分がない」のではなくて、「自分の声を聞くのをずっとやめていた」ということだと、今の自分は思っている。本音が消えたんじゃなくて、聞こえなくなっただけ、なのかもしれない。
日本という社会は、本音を隠すように設計されている? 🤔
「空気を読む」「察する」——美徳の裏側
日本語には、本音を隠すことに関連した言葉が驚くほど多い。
「空気を読む」「察する」「気遣い」「おもてなし」「阿吽の呼吸」——これらは全部、「言葉にしなくても伝わる」ことを美徳とする文化の表れだと思う。言わなくてもわかってくれる。言わなくてもわかる。そのことを「大人らしさ」「気が利く」と呼ぶ。
外国の方が日本に来て困惑することの一つが、まさにこの「本音と建前」の問題だと聞く。「難しいですね」が「無理です」の意味だと気づくのに、しばらく時間がかかる、と。
でも、これって「嘘をついている」というより、場の調和を守るための知恵として機能してきた側面もある。集団で生き、助け合って生きてきた社会では、一人の正直な言葉が関係全体を壊すこともある。だから「言わない」ことを選ぶのは、ある意味で合理的な選択でもあったわけで。
本音と建前は、実は思いやりだったかもしれない
「本音と建前」って、どこかネガティブな言葉として語られることが多い。「本当のことを言わない=ずるい」みたいな見方もある。
でも、ちょっと待ってほしい。
「あなたの話、正直つまらないな」と思いながら「面白いですね」と言うのは、嘘といえば嘘だけど、相手を傷つけないための配慮でもある。「本当は行きたくない」と思いながら参加するのは、自分を犠牲にしていることでもあるけど、「一緒にいたい」という気持ちの別の表現かもしれない。
建前の中にも、ちゃんと本音が入っている。ただ、それが真っ直ぐじゃない形をしているだけで。
本音を隠し続けると、どうなるのか
疲れるのに、やめられない 😮💨
「本音を言わないほうが、うまくいく」と頭でわかっていても、その生き方はじわじわと消耗していく。
心理学の世界では「感情労働」という言葉がある。本当の感情と違う表情・言葉を使い続けることで心身が消耗する、という概念。接客業の方や、常に笑顔を求められる職場で働く方に特に研究されているものだけど、これは仕事に限った話じゃない。家族の前でも、友人の前でも、「本当の自分」を隠し続ける生活は、確かに疲れる。
「なんかいつも疲れてる気がする」「人と会うと消耗する」という感覚がある人は、もしかしたら本音を抑えるエネルギーを使いすぎているのかもしれない。
「本当の自分」がどこかへ行ってしまう感覚
もう一つ、怖いと思うのが、本音を隠し続けていると、自分でも本音が何かわからなくなっていくという現象。
最初は「ここでは言わないでおこう」という意識的な選択だったのに、それがだんだん自動化されて、気づいたら「自分がどう思っているかよくわからない」状態になっている。感情がフラットになる、というか、何かを見ても「どう感じるべきか」を先に考えてしまう。
これは誰かがそうした「悪意」があったわけじゃなくて、自分を守るための自然な適応の結果だと思う。でも、その適応が積み重なると、どこかで「自分」が薄くなる感覚がある。
「言えない」ことへの、別の見方
沈黙にも、ちゃんと意味がある
「本音が言えない」ことを、ずっと「問題」として語ってきた。でも、もう少し違う角度から見てみると——。
沈黙は、空白じゃない。
言葉にしないことで守られる関係がある。言葉にしてしまうことで壊れてしまうものがある。すべてを言語化することが「誠実さ」だとは、必ずしも言えないんじゃないかな、と最近は思う。
哲学者のウィトゲンシュタインは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という言葉を残している。これは「言えないことは価値がない」という意味じゃなくて、むしろ逆で——言葉にならないものの中に、大切なものが宿っているという感覚に近い。
本音が言えないのは、弱さじゃなくて、深さかもしれない。
全部話さなくても、伝わるものがある
もちろん、「だから全部隠していいんだ」とは思わない。それはまた別の問題。
ただ、「すべての本音を言葉にしなくても、自分は存在している」という感覚を持てると、少し楽になれる気がする。伝わることと、言葉にすることは、必ずしもイコールじゃない。表情で、態度で、選択で、ときには沈黙で——本音は伝わることがある。
言葉はあくまでツールで、それが唯一の手段じゃない。
それでも、ときどき本音を言いたくなるのはなぜか 💬
「わかってほしい」という、消えない欲求
「本音を言っても疲れるだけ」「どうせわかってもらえない」——そう学習してきたはずなのに、どこかで「本当のことを話したい」という気持ちが消えない。
これはたぶん、人間の根っこにある欲求なんだと思う。ただ「認められたい」のではなく、「自分という人間をそのまま受け取ってほしい」という欲求。誰かの前で鎧を外していたい、という感覚。
前回の記事で書いた「承認欲求」とも少し違う。承認は「すごい」と思われたいという気持ちだけど、本音を聞いてほしいのは「すごい私」じゃなくて「ありのままの私」を見てほしい、ということだから。
本音を言える場所、本音を聞いてくれる人
「本音を言えなくて疲れている」と感じる人が増えている一方で、「本音を言える場所」や「本音を聞いてくれる人」の存在は、今の時代に特に価値があると思う。
研究によれば、本音で話す人は周囲を信頼していることが多く、本音を打ち明けられる関係は基本的信頼感と強く結びついているという。つまり、本音が言える場所は、信頼が積み重なった場所でもある。
逆に言えば、まったく本音が言えない環境は、信頼が育ちにくい環境でもある。そういう場所から、少しずつ離れる勇気も、たまには必要なのかもしれないですね。
まとめ——「言えない」も、あなたの一部
本音を隠してしまう理由を考えていくと、そこには怖さや痛みや、思いやりや、文化や、長い時間をかけて形成された自分の回路がある。
「全部ちゃんと言える人」が強くて、「言えない人」が弱いわけじゃない。そのどちらも、人間らしさだと思う。
ただ——あなたの本音は、消えたわけじゃない。言葉にならなくても、誰かに届かなくても、あなたの中にちゃんとある。それだけは、忘れないでほしいな、と思う。
あなたは、どんなときに「本当のことが言えない」と感じますか?そしてそのとき、自分の中で何が起きていると思いますか?よかったら、ちょっと考えてみてください。🌿
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次回は「人はなぜ自分の気持ちを後回しにしてしまうのか」について書こうと思います。「本音を隠す」より前の段階——そもそも自分の気持ちを大事にすることが苦手、という問いです。


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