友達のインスタを見るつもりじゃなかった。ただなんとなく開いて、スクロールして、気づいたら「あ、この人また旅行してる」「この人、転職したんだ」「すごいな……」と、見知らぬ誰かの人生をまじまじと眺めている自分がいる。
そして画面を閉じた瞬間、なんとなく気持ちが沈む。
なんだろう、このモヤモヤは。べつに負けたわけでも、悔しいわけでもない。でも、なんか……重たい。
そういう経験、ありませんか?
わたしはしょっちゅうありました。しかも、比べてしまった後に「また比べちゃった。自分って器が小さいな」と二重に落ち込む、という謎のコンボまでセットで。😅
でも最近、ちょっと考え方が変わってきました。「比べてしまうのは、性格の問題じゃないかもしれない」と思うようになってきたんです。今日は、その話を一緒にしてみたいと思います。
人はなぜ、他人のことがあんなに気になるのか
SNSを開くたびに誰かと比べている自分
スマートフォンを手に入れてから、比べる機会が爆発的に増えた気がします。
昔だったら「隣の田中さんちのお子さんは東大に入ったらしいよ」という話は、せいぜい近所の井戸端会議で聞くくらいだったはず。でも今は、小学校の同級生が海外移住した話も、昔の職場の同期が起業した話も、全部タイムラインに流れてくる。しかも写真付きで、キラキラしながら。
情報が可視化されすぎている、というのはたしかにあると思います。
でも不思議なのは、SNSがなかった時代の人たちも、別の形でずっと比べてきたはずなんですよね。隣の家の煙突から出る煙の量で豊かさを測ったり、村の中での序列を肌で感じたり。比較衝動は、SNS以前からあった。
これって性格が悪いせいなのかな、と思っていた頃
20代の半ば、わたしは「人と比べてしまう自分」がけっこう嫌いでした。
たとえば、友達が昇進したと聞いたとき。心から「おめでとう」と言いながら、その裏でちょっと「自分は……」と思っている自分がいる。その二層構造が、みっともない気がして。
「こんなに嫉妬深かったっけ、自分」と鏡の前でひとり反省会を開いたこともあります(今思うとちょっと恥ずかしい)。でも当時は本気で「性格の問題」だと思っていたんですよね。
比べてしまうのは、脳と本能のせいだった
序列を測るのは、生き残るための古い本能
神経科学の研究によると、人間の脳は「社会的な序列」に非常に敏感に反応するように設計されているそうです。
集団の中での自分の立ち位置——序列が下がると、脳は「命の危険」に近い反応を示すという話があります。太古の昔、群れの中で序列が低い個体は食料や繁殖の機会を得にくかった。生き残るために、「自分は今、群れの中でどのあたりにいるのか」を常に把握する必要があった。
つまり比較衝動は、何万年もかけて磨かれた「生存戦略」の名残なんです。
それを聞いたとき、なんかちょっと安心しました。「性格の問題」じゃなくて「脳の仕様」なのか、と。
「社会的比較理論」——人間は比べることで自分の位置を確認する
1954年に心理学者のレオン・フェスティンガーが提唱した「社会的比較理論」という考え方があります。
人は自分の能力や意見の正しさを評価したいとき、客観的な基準がなければ他人と比べることで測ろうとする——というものです。
「自分はちゃんとやれているのか?」「普通はこういうものなのか?」という問いに答えるための、ひとつの方法として比較がある。だから完全にやめることは、たぶんかなり難しい。
比較がやめられないのは意志の弱さじゃない
「比べるのをやめよう」と思っても、なかなかやめられない。
それは意志が弱いからではなく、「比べること」が脳の自動プログラムの一部として組み込まれているから、という側面があります。ぼーっとしているときに呼吸しているのをわざわざ意識しないのと同じで、比較もある程度は「勝手に起きる」もの。
責めすぎなくていい、ということです。たぶん。
比べる相手は、なぜいつも「上」なのか
上方比較と下方比較、どちらが多い?
心理学では「上方比較」と「下方比較」という言葉があります。
自分より優れている・うまくいっている人と比べるのが上方比較。自分より苦労している・うまくいっていない人と比べるのが下方比較。
落ち込んでいるとき、人はどちらをやりがちか——というと、これがなんとも厄介で、そのときの心理状態によって変わるらしいんです。自信があるときは「あの人すごい、自分も頑張ろう」と上方比較をエネルギーに変えられる。でも自信がないときは、同じ上方比較が「やっぱり自分はダメだ」という確認作業になってしまう。
同じ「比較」でも、心の状態によって全然違う働きをする。これはちょっと興味深いですよね。
SNSが「上」しか見せない構造になっている理由
SNSに「今日もダラダラしていた」とか「また三日坊主になった」という投稿は、あまり流れてきません。
流れてくるのは、旅行の写真、昇進の報告、新しいチャレンジへの意気込み。つまり「ハイライト」だけです。
当たり前の話なんですが、SNSを見ているとそれを忘れてしまう。「みんな充実してる」「みんな前に進んでる」という錯覚が生まれやすい。
比べているのは「相手の全部」ではなく「相手の最良の瞬間」なんですよね。それと「自分の日常」を比べているから、どうしても分が悪い。😓
比べることは、本当に悪いことなのか
比較が「あこがれ」を生んだとき
でも正直、比べることで救われたこともあるんです。
20代のころ、ひとり年上の先輩に、「あの人みたいに仕事がしたいな」と思ったことがありました。比べると言えば比べているんですが、そこには「羨ましい」よりも「かっこいい」という感情の方が強くて。
その「あこがれ」が、自分の行動の原動力になっていた時期があった。
比較がすべて毒になるわけじゃない。あこがれや尊敬という形をとったとき、比較は前に進む力になることもある。
問題は「比べること」ではなく「比べ続けること」かもしれない
一度比べて「へえ、あの人すごいな」と思うだけなら、たぶんそこまで苦しくない。
苦しくなるのは、比べた後も比べ続けるとき——「自分はなんでダメなんだろう」という問いを、答えが出ないまま何度もぐるぐる回し続けるとき——な気がします。
比べること自体より、「比べた後の思考の引っかかり方」の方が問題、というか。ひとつの考え方として。
じゃあ、どこに向かって比べればいいのか
「昨日の自分」を比較対象にするとはどういうことか
「他人と比べるのではなく、過去の自分と比べましょう」という言葉、聞いたことがある人は多いと思います。
正直に言うと、最初に聞いたとき「いや、それってつまりどういうこと?」と思っていました。なんかきれいごとっぽくて、ピンとこなかった。
でも最近、少しずつわかってきた気がします。昨日の自分と比べるというのは、「他人の基準ではなく、自分の基準で成長を測る」ということなのかもしれない、と。
たとえば、料理が苦手だった人が先週より少し上手に切れるようになった——それは誰かのSNSの「映える料理」とは全然関係のない、その人だけの成長です。それを「成長」として認識できるかどうか、の話だと今は思っています。
「自分軸」という言葉に感じる、ちょっとした違和感
ただ、「自分軸で生きよう」という言葉にも、なんとなくモヤっとすることがある。
「自分軸」って、すでに持っていないと難しくないですか。「何が好きか」「何を大切にしているか」がはっきりしている人には腑に落ちる言葉だと思う。でも、それ自体がまだよくわかっていない人には、「自分軸を持て」と言われても、どうすればいいかわからない。
「比べるのをやめて自分軸で生きよう」と言うのは、「迷子になったら正しい道を歩こう」と言うくらい、当たり前すぎてちょっと途方に暮れることがある(笑)。
そこはまあ、ゆっくりでいいのかな、とも思っていますが。
比べることをやめなくていいかもしれない、という話
比べながらも、疲れない距離感
「比べるのをやめよう」と力んでやめようとするより、「比べることを自分がどう扱うか」を少し変える方が、現実的かもしれない、と最近は思っています。
たとえば——比べた後に「だから自分はダメだ」という結論に直行するのではなく、「ふうん、そういう生き方もあるんだな」と一度受け流してみる。
比べたことを責めず、比べた後の感情と少し間を置く。
それだけで、ちょっと楽になる気がしています。うまく言えないんですが、「比較に全部飲み込まれない」感覚、というか。🌿
あなたにとっての「比べる意味」はなんだろう
最後に、ひとつ問いを残して終わりにしたいと思います。
あなたが誰かと自分を比べるとき——その比較の奥には、どんな気持ちがありますか?
「ああなりたい」というあこがれ?「自分はちゃんとやれているのか」という不安?「なんで自分だけ……」という孤独感?
比較の感情の下を少し掘り返してみると、そこに、自分が本当に大切にしていることや、怖れていることが隠れていることがあります。
比べてしまうことは、やめなくていいのかもしれない。それよりも、「自分は何と比べているのか」「それはなぜなのか」を、たまにゆっくり眺めてみることの方が、意外と豊かな問いになるかもしれない——と、わたしは最近そう思っています。
あなたはどうでしょう。


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