人はなぜ謝りすぎてしまうのか——口癖になった「すみません」の正体を、一緒に考えてみる

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人生のぎもん

エレベーターに乗ろうとしたら、ドアが閉まりかけていた。ボタンを押して開けてもらったら、なぜか「すみません!」と言っていた。

——そういうこと、ありませんか?

ちょっと待ってもらっただけなのに、ぶつかってもいないのに、なにか悪いことをしたわけでもないのに、口から先に「すみません」が出てしまう。 そして言ってから「あれ、なんで謝ったんだろう」と少し首をかしげる。

わたし自身、これがかなり染みついていて、長いこと気にも留めていませんでした。謝ることに慣れすぎて、もはや謝っていることすら意識しなくなっていたんですよね。

今日は、そんな「謝りすぎてしまう」という癖について、一緒に少し考えてみようと思います。


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「すみません」が口から出た瞬間、あなたはどんな気持ちだったか

別に悪くないのに、なぜか謝っていた

「すみません」という言葉を口にする場面を、少し思い浮かべてみてください。

道を聞かれて答えたとき。コンビニで「袋いりますか?」と聞かれて「あ、すみません、もらえますか」と言ったとき。職場で上司から「ちょっといいですか」と声をかけられた瞬間、まだ何も言われていないのに「すみません!」と飛び出したとき。

……そのとき、なにか悪いことをしましたか?

たぶん、してないと思うんですよね。なのに、謝っている。これ、けっこう不思議なことだと思いませんか?

謝ってから「あれ、なんで謝ったんだろう」と気づく不思議

面白いのは、謝ったあとで「なんで謝ったんだろう」と気づく、あの感覚です。

謝るときって、多くの場合、考えてから謝っていないんですよね。気づいたらもう「すみません」と言っていた、みたいな。ほとんど反射に近い。

あの「気づいたら謝っていた」という感覚の中に、なにか大事なことが隠れているような気がして、ちょっと掘り下げてみたくなりました。


「すみません」はいつから口癖になるのか——心の中で何が起きているのか

「怒らせたらどうしよう」という先読みの恐怖

謝り癖のある人に共通しているのが、相手の感情への先読みだと言われています。

「もしかして迷惑だった?」「不快にさせたかもしれない」「こちらの都合で手を煩わせてしまった」——そういう不安が、謝罪よりも先に走って、言葉として出てくるんです。

思いやりといえば思いやりなんですけど、少し過剰になると、謝ること自体が相手の感情の管理装置になっていく。謝ることで「怒られる前に怒られなくする」という、小さな防御になっているんですよね。

これを「先制謝罪」と呼んでいる心理士もいるくらいで、結構あるある、らしいんです(笑

自分はここにいていいのか、という不安

もう少し深いところに目を向けると、謝り癖の根っこには、「自分がここにいることへの申し訳なさ」みたいなものがあるんじゃないかと、わたしは思っています。

誰かに何かしてもらう。それだけで「申し訳ない」という感覚が湧いてくる。それは、自分の存在がどこかで「迷惑なもの」として刷り込まれているような感覚に、近いかもしれません。

「すみません」の語源は「済みません」——気持ちが済まない、晴れない、という意味から来ているという説があります。何もしていなくても「気持ちが晴れない」と感じてしまう。それが「すみません」という言葉に乗っているとしたら、なんだか少ししみじみしますね。

過去の経験が謝罪グセを育てることもある

心理学的には、幼いころの環境が大きく影響しているとも言われています。

不機嫌な大人が近くにいた、何かするたびに叱られた、感情の予測がつかない人と過ごした——そういう経験が積み重なると、「先に謝っておけばなんとかなる」という学習が起きやすくなるんです。

大人になってもその反射は残ります。上司の声色が少し変わっただけで背筋が伸びる。「ちょっといい?」のひとことで胃がきゅっとする。それは、過去の体験が今もちゃんと生きている証拠なんですよね。悪い意味じゃなく、それくらい人間は環境に適応してきた、ということでもある。


日本語の「すみません」はちょっと特殊な言葉かもしれない

謝罪でもあり、感謝でもあり、呼びかけでもある

少し引いて見てみると、「すみません」という言葉、実は多機能すぎるんですよね。

  • 謝るときの「すみません」(ごめんなさい)
  • 感謝するときの「すみません」(ありがとうの代わり)
  • 呼びかけるときの「すみません」(ちょっとよろしいですか)

英語の “I’m sorry” とも “Thank you” とも “Excuse me” とも違う。この一語で全部まかなっているのは、日本語くらいかもしれません。外国の人が「なぜ日本人はいつも謝っているのか」と不思議に思うのも、まあ無理はないですね(笑

「和を乱さない」文化の中で育った言葉

日本に「和」を大切にする文化があることは、多くの人が感じていると思います。

集団の中では、個人の感情や意見よりも、場の空気や関係の調和が優先されることがある。だれかが不満を持ちそうなとき、先に謝って丸く収める。これは、ある意味で集団を維持するための洗練されたコミュニケーションだったのかもしれません。

江戸時代、身分の高い人への失礼は命取りにもなりかねなかった時代、「先に謝る」は賢明な生存戦略でした。その文化が数百年をかけて日常の口癖に沁みついていったとしたら——「すみません」はわたしたちの先祖がくれた遺産みたいなものかもしれない。大げさですかね(笑


謝りすぎることの、ちょっとした代償

謝ることで関係が縮んでいく

謝り癖には、少し困った副作用があります。

必要以上に謝り続けると、相手との間に「この人は自分より下の立場」というムードができやすくなるんです。本人はそんなつもりがないのに、謝ることで無意識に自分を小さく見せてしまう。

それが積み重なると、ふとしたとき「あれ、わたし、ちゃんと対等に話せてたかな」という感覚が生まれたりします。丁寧にしようとしていたのに、なんか縮んでた——みたいな。

「すみません」が本当に必要なときに届かなくなる

これがもっとも残念な副作用だと思うんですけど、謝り癖が強すぎると、本当に謝りたいときの言葉の重みが薄れてしまうんです。

毎日あらゆる場面で「すみません、すみません」と言っていると、いざ深く申し訳ないと思ったとき、同じ言葉を使っても届かない。オオカミが来た話みたいですが、言葉の重みって、使い方で変わってくるんですよね。


謝ることが悪いわけじゃない——大切なのはどこから謝るか、かもしれない

恐怖から謝るのか、思いやりから謝るのか

ここまで書いてきて思うのは、謝ること自体は悪くない、ということです。

大切なのは、どこから謝っているか、なのかもしれない。

「怒らせたくない」「嫌われたくない」「ここにいてもいいと思ってほしい」という恐怖や不安から謝っているとき、謝るほど自分が小さくなっていく感じがあります。謝っても、なんとなく気持ちが晴れない。

でも「あなたに手間をかけさせてしまって申し訳ない」という、相手への本当の思いやりから出る謝罪は、どこか温かい。自分も相手も大切にしている感じがある。

同じ「すみません」でも、出どころが違う。なんとなく、そこが肝な気がしています。

「ありがとう」に変えてみると何が起きるか

よく言われる方法ですが、「すみません」を「ありがとう」に変えてみるというのは、やってみると面白いんですよね。

「待たせてすみません」→「待ってくれてありがとう」

意味の重心が変わる感じがしませんか? 謝罪(自分の失敗へのフォーカス)から感謝(相手への気づき)へ。変えてみると、ちょっとだけ気持ちが軽くなるし、相手も笑顔になりやすい気がします。

全部を変える必要はないんですけど、「あ、これは感謝に変えられるな」と気づく瞬間が増えてくると、少しだけ自分との関係が変わっていく感じがあります。🍀


あなたはどこから謝っているだろう

自分の「すみません」を少し観察してみる

難しいことをしようとしているわけじゃなくて、ただ、今日一日で「すみません」と言った瞬間を、少し後から振り返ってみる、それだけでいいと思うんです。

「あのとき、なんで謝ったんだろう」「本当に謝りたかったのかな、それとも怖かっただけかな」——そういう小さな問いを、自分に向けてみる。

答えが出なくていい。ただ気づくだけで、なんか違ってくることがあるんですよね。

謝り癖は、その人の優しさの形でもある

最後にひとつだけ。

謝り癖のある人って、たいてい、すごく優しい人だと思うんです。😊

「迷惑をかけたくない」「相手を傷つけたくない」「場の空気を守りたい」——そういう感受性の豊かさが、「すみません」という形になっている。それ自体は、決して悪いことじゃない。

ただ、その優しさが、いつも自分の方向にだけ向いていないか、ということは、ちょっと気にかけてあげたいなと思います。自分への優しさと、他者への優しさ、両方あって初めてバランスが取れる。

あなたの「すみません」は、どこから来ているでしょうか。

恐怖から? それとも、思いやりから?

——ちょっとだけ、立ち止まって聞いてみてください。


次回は「人はなぜ感謝することが苦手なのか——「ありがとう」が出てこない瞬間の正体を、一緒に考えてみる」というテーマで書こうと思います。

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