人はなぜ記憶を書き換えてしまうのか——覚えているつもりが、実は作り話だった

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人生のぎもん

「そんなこと言ったっけ?」

家族や友人とそんなやり取りをしたこと、一度や二度じゃないと思う。相手は「言った」と言い張り、自分は「言ってない」と確信している。どちらが嘘をついているわけでもないのに、なぜかお互いの記憶がまったく食い違う。あの不思議な感覚、どこか覚えがないだろうか。

実は少し前、わたし自身がこの「記憶のズレ」を思い知らされる出来事があった。昔の友人と久しぶりに会って、学生時代の話をしていたとき。わたしは「あの旅行、みんなで騒いで楽しかったよね」と言ったのだが、友人の顔がスッと曇った。「あの旅行、けっこうトラブル続きで、みんなしんどかったよね?」——え、そうだったっけ。🤔

記憶って、こんなにも違うものなのか、と改めてびっくりした。でも、調べてみると「記憶の書き換え」は人間の脳にとって、ごく当たり前の現象らしい。それどころか、ある意味では「必要な機能」かもしれない、という話になっていく。


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「覚えてる」はどこまで信用できるのか

記憶はビデオではなく、毎回「再生成」される

多くの人は「記憶」をビデオカメラのようなものだと思っている。過去の出来事がどこかに録画されていて、思い出すとそれが再生される——そんなイメージ。でも、これがまず大きな勘違いらしい。

脳の仕組みを研究している認知心理学の世界では、記憶はむしろ「毎回作り直されるもの」に近いとされている。思い出す、という行為は保存された映像を再生するのではなく、記憶をいったん取り出して、また書き込み直す作業に近い。そのたびに、今持っている知識や感情、周囲の情報が少しずつ混入していく。

パソコンのファイルを開いて、微妙に編集して、また保存する感じ、と言えばわかりやすいかもしれない。しかも本人は「編集した」という自覚がない。気づかないまま、書き換えが起きている。

思い出すたびに、記憶は少しずつ変わっている

つまり何が起きているかというと、よく思い出す記憶ほど、変わりやすい。

「あのころは楽しかった」と何度も振り返ってきた記憶は、振り返るたびに少しずつ「楽しかった」方向に上書きされていく可能性がある。逆に、思い出すたびに「つらかった」と感じ直してきた記憶は、どんどんネガティブな色が濃くなっていく。

記憶は、繰り返し呼び出されることで鮮明にもなるし、同時に変質もする。鮮明さと正確さが必ずしも一致しない、というのが、記憶というものの少しやっかいなところだと思う。


なぜ脳は都合よく書き換えてしまうのか

「認知的不協和」を解消するための自己防衛

ではなぜ、脳はそんな手間のかかることをするのか。そのひとつの答えが「認知的不協和の解消」という心理現象だ。

認知的不協和というのは、自分の信念や行動と、現実のあいだにズレが生じたとき、それを解消しようとする心の働き。有名なイソップ童話の「酸っぱいブドウ」で、手が届かなかったブドウを「どうせ酸っぱいに決まってる」と言い訳するキツネの話を思い出してもらうと分かりやすい。

人間もこれをやる。しかも、意識的にではなく、脳が勝手にやってしまう。

たとえば、受験に失敗して志望校ではない学校に通うことになったとき。時間が経つにつれて、「あの学校に行かなかったからこそ、今の自分がある」という記憶の物語が自然と形成されていく。嘘をついているわけじゃない。脳が、自分を守るために「つじつまの合うストーリー」を作り上げているのだ。これを「正直なウソ」と言った研究者がいたが、なるほどと思った。

言葉ひとつで記憶の内容が変わる——ロフタスの実験

もっと驚くのは、外からの言葉が記憶を変えてしまうことがある、という話。

虚偽記憶研究の第一人者であるエリザベス・ロフタスという研究者が行った有名な実験がある。参加者に交通事故の映像を見てもらったあと、「車がぶつかった(hit)時のスピードは?」と聞いたグループと、「車が激突した(smashed)時のスピードは?」と聞いたグループで、回答に大きな差が出た。同じ映像を見ているのに、使った言葉が違うだけで、記憶の中のスピードが変わってしまった。

さらに興味深いのは、「激突した」という言葉を使ったグループのほうが、映像には映っていなかった「割れたガラス」を「見た」と報告した人が多かったという事実。言葉が、記憶に存在しない情報を植え付けてしまうことがある。

「あの時、彼はひどいことを言ったんだよ」と誰かに話し続けているうちに、その記憶がどんどん「ひどい」方向に上書きされていく——そういうことが、たぶん日常的に起きている。😅


「言った言わない」はなぜ起きるのか

どちらも嘘をついていない、という不思議

冒頭の「言った言わない」問題に戻ると、これも記憶エラーの典型例だ。

どちらかが意図的に嘘をついているのではなく、二人それぞれの記憶が、それぞれ独自に変容していた——という状況が多い。両方の記憶が「本物」であり、かつ両方が「不正確」でもある、という、なんとも厄介な話だ。

早稲田大学で記憶を研究している杉森絵里子准教授の言葉が印象的だった。「話を盛る」タイプの人も、意識的にウソをついているわけではなく、語っているうちに本人の中ではそれが本当の記憶になってしまうのだという。「あの人は嘘つきだ」と思う前に、記憶の変容というフィルターを通してみると、少し見え方が変わるかもしれない。

記憶エラーは性格ではなく、脳の仕様

「記憶エラーのない人はいない、ただ、エラーの仕方が違うだけ」というのも、同じ研究者の言葉だ。

ネガティブな傾向が強い人は「面倒見がいいね」と言われても「おせっかいだと言われた」と記憶しやすい。逆に、楽観的すぎる人は「それは難しいかもしれません」を「可能性はある、ということですね!」と解釈して記憶する。どちらも脳の「クセ」であって、本人の意地悪さや不誠実さとはまた別の話なのだ。

自分の記憶を疑うのは少し怖いけれど、「自分の記憶もエラーするもの」と知っておくと、人間関係での摩擦が少し和らぐかもしれないとも思う。


記憶の書き換えは、悪いことだけじゃないかもしれない

つらい過去が「あれはあれで良かった」になる理由

ここで少し見方を変えてみたい。記憶が書き換わること、それは本当に悪いことだけなのか。

超記憶力を持つ人——過去のことを日付レベルで細部まで記憶しているタイプの人——の研究が面白い。記憶力が高ければ豊かな人生を送れそうなものだが、実際には多くの人が「忘れられないことで苦しんでいる」と報告しているのだという。

わたしたちが嫌な記憶を薄れさせ、時に美化し、「あれはあれで良かったのかもしれない」と思えるようになるのは、脳が意図的にそうしているからかもしれない。傷ついた記憶をそのまま保存し続けていたら、おそらく日常生活もままならなくなる。書き換えという「エラー」は、ひょっとすると心を守るための知恵なのかもしれない。

忘れられる生き物だから、前を向ける

「忘れる」ことへの後ろめたさを感じる人は少なくない。大切な出来事が薄れていくことへの罪悪感や、「ちゃんと覚えていない自分はダメだ」という感覚。

でも、前を向いて生きていけるのは、ある程度忘れられるからなのかもしれない。過去の失敗も、傷も、後悔も——すべてが鮮明なまま残り続けたら、今日という日を生きるのがどれほど重くなるだろうか。

記憶が書き換わることは、過去に縛られずに今を生きるための、脳の不思議なやさしさなのかもしれない、と今のわたしは少しそう思っている。🌱


「自分の記憶」を疑ってみると、何が変わるか

正確な記憶より「今の解釈」の方が人生に影響する

ここで少し哲学的な問いを立ててみたい。

「自分はどんな人生を歩んできたか」——これは事実の記録ではなく、記憶の編集結果だとしたら、どうだろうか。つらかった子ども時代を「あれが自分を強くした」と解釈している人と、「あれのせいで自分はこうなった」と解釈している人とでは、同じ過去を持っていても、まったく違う人生を歩んでいるように見える。

記憶の正確さより、今自分がどう意味づけをしているか、の方が、実は今の自分の気持ちや行動に影響している。そう考えると、「過去の記憶をどう解釈するか」は、けっこう大事な問いになってくる。

過去は変えられないが、記憶の意味は変えられる

「過去は変えられない」とよく言われる。確かにそうだ。でも、記憶の意味は変えられる、かもしれない。

あのとき傷ついた出来事を、「あれがなければ今の自分はなかった」と捉え直すことは、事実を歪めることではなく、記憶に新しい意味を与えることだ。それは脳が自然にやっていることを、もう少し意識的にやってみる、ということでもある。

記憶は固定されたものではなく、今の自分との対話によって、少しずつ形を変えていく。そう思うと、過去との付き合い方が少しやわらかくなる気がしないだろうか。


あなたの「あの記憶」は本当にそうだったのか

記憶は自分を守るために作られている

脳はとにかく、今の自分を守ろうとする。自分の信念と矛盾する記憶はそっと書き換え、過去の失敗には後付けで意味を与え、なんとか「自分の人生はこういうものだった」という一貫したストーリーを作り続けている。

それは時にバイアスになるし、「言った言わない」みたいな摩擦を生むこともある。でも同時に、昨日の失敗をひきずらずに今日を生きられるのも、このエラーのおかげかもしれない。

記憶はあてにならない。でも、あてにならないからこそ、人は生きていけるのかもしれない。😌

それでも、自分の記憶を愛しく思うこと

完璧に正確な記憶を持つことが人生の豊かさに直結するかというと、どうもそうでもないらしい。大切なのは、「この経験が自分にとってどんな意味を持つか」という解釈のほうかもしれない。

記憶は、ちょっと嘘をつく。でもその嘘は、自分を守ろうとした脳の、不器用なやさしさだったりする。

あなたの「あの記憶」は、今のあなたにとって、どんな意味を持っているだろうか。正確かどうかより、そっちの方がずっと大事な問いかもしれない。


まとめにかえて

記憶の書き換えは、脳のエラーであると同時に、心を守るための機能でもあるらしい。わたしたちは正確な記録者ではなく、物語の編集者として、自分の過去を作り続けている。

だとすると、過去の記憶に引っ張られすぎることへの疑問も、少し浮かんでくる。「あのとき確かにこうだった」という確信が、実は今の自分の気分や信念に色付けされた解釈だとしたら——それは怖くもあるけど、同時に少し自由でもある。

過去は確かなものではなく、今の自分との対話によって少しずつ変わっていく。そういう意味では、記憶は「記録」ではなく「今の自分」を映す鏡なのかもしれない。

あなたが「ずっとそうだった」と思っている記憶の中に、今の気持ちが混ざっているものは、ないだろうか。🪞


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