人はなぜ「承認」だけでなく「理解されること」を求めるのか——「すごいね」じゃなくて「わかるよ」が欲しい

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人生のぎもん

「頑張ったね」「すごいじゃないか」——そう言われたのに、どこかスッキリしない。

なんだろう、この感覚。褒めてもらった。認めてもらった。なのに、胸の真ん中あたりがまだ、ちょっとだけ渇いている気がする。

この記事を書こうと思ったのは、そういう経験が何度かあったからです。評価されることと、理解されることって、どうも別物らしい——そう感じてきたのに、それを言語化できないまま、ずっとモヤモヤしてきた。今日は、そのモヤモヤを一緒に掘り下げてみようと思います。


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「認められた」のになぜか物足りない、あの感覚

褒められたのに、どこかがザワつく理由

仕事でひとつ、大きな仕事を終えたとします。上司から「よくやった」と言われた。同僚からも「すごいね」と声をかけてもらった。数字的にも成果が出て、誰がどう見ても「うまくいった案件」。

それなのに、家に帰ってひとりになったとき、なんとなく虚しい。

「あれ、なんで?」と思ったことは、一度や二度じゃありません。最初は自分がおかしいのかと思っていたんですよ。感謝されて、褒められて、それでも満足できないなんて、欲張りすぎじゃないかって。

でも、たぶんそれは欲張りじゃないんです。

問題は「何が」評価されたか、なんですよね。結果が評価された。出した数字が認められた。でも、そこに至るまでのプロセス——どれだけ悩んだか、どこで踏ん張ったか、何度も諦めかけてそれでも続けたか——その部分は、誰にも届いていない。

そのとき人が感じるのは、「認められた空虚さ」とでも呼ぶべき感覚じゃないかと思うんです。

「すごいね」と「わかるよ」はどう違うのか

「すごいね」という言葉と、「わかるよ、それ大変だったよね」という言葉。

どちらが嬉しいかって、人によっても場面によっても違うと思います。でも、心の底まで届く感じがするのは、たいてい後者のほうじゃないでしょうか。

「すごいね」は、相手が外側から自分を評価している。「わかるよ」は、相手が少しだけ自分の内側に入ってきている。この違いは、思っているより大きい。

「すごい」と言われたとき、私たちは「ああ、認めてもらえた」と感じる。でも「わかる」と言われたとき、私たちは「ああ、存在を感じてもらえた」と感じる気がするんですよね。


承認と理解——似ているようで、実はぜんぜん違う

承認は「結果」への評価、理解は「過程」への共鳴

心理学の世界では、「承認欲求」という言葉がよく使われます。マズローという心理学者が提唱した欲求の5段階説のなかで、承認欲求は「他者から認められたい、尊敬されたい」という欲求として位置づけられています。

承認欲求そのものは、別に恥ずかしいものじゃない。誰もが持っている、ごく自然な欲求です。

ただ、「承認」と「理解」は微妙に違う。

承認は、どちらかというと「結果」に向けられるものです。あなたがやったことは価値がある、あなたは優秀だ、あなたの行動は正しかった——こういう評価が承認です。

一方で理解というのは、「過程」や「内面」に向けられるもの。なぜそうしたのか、どう感じていたのか、どんな葛藤があったのか——そういうものが「わかった」と受け取られる感覚が、理解されるということだと思うんですよね。

承認は「あなたの行動は正しい」で、理解は「あなたの気持ちはわかる」に近い。その差は、小さそうで実は大きい。

なぜ人は承認より深い場所に「理解」を求めるのか

テストで100点を取ったとき、「すごい!」と言われて嬉しい。でもその裏で、「実は数学が苦手で、何時間も泣きそうになりながら勉強してたんだよ」という部分は、誰にも伝わっていない。

この「伝わっていない部分」を誰かに受け取ってほしい——その欲求が、「理解されたい」という気持ちの正体のひとつじゃないかと思います。

承認は、ある意味で「表面」に対する反応です。でも人間は、表面だけで生きているわけじゃない。その人なりの事情、背景、感情、文脈——そういうものが積み重なって、ひとりの人間ができている。

だから、表面だけを評価されても、「自分が認められた」という感覚にはなりにくいんです。「自分のやったことが認められた」と「自分という存在が理解された」は、そもそも別の話なんですよね。

孤独感が消えない人が本当に欲しがっているもの

「孤独感」って、ひとりでいるときだけに感じるものじゃないですよね。

たとえば、家族がいる。友達もいる。職場の仲間もいる。でもなんとなく孤独を感じる、という人は少なくないと思います。

カウンセリングの文脈では、「誰もわかってくれない」という感覚は承認欲求の問題として語られることが多い。でも実際には、「認めてもらえていない」より「わかってもらえていない」のほうが、孤独感の根っこに近いんじゃないかという気がしています。

周囲に人がいても孤独、というのは、「理解の回路が繋がっていない」状態に近いのかもしれません。


「理解されたい」は人間の根っこにある欲求

幼少期から始まる「わかってほしい」の歴史

「理解されたい」という気持ちが初めて生まれるのは、おそらく子どもの頃です。

「寒くない」と言ったら「そんなことない、着なさい」と言われた。「怖い」と言ったら「それくらい大丈夫」とあしらわれた。「やりたくない」と言ったら「ワガママを言うな」と返ってきた。

こういう経験が積み重なると、「自分の気持ちは受け取ってもらえない」という感覚が少しずつ根づいていきます。逆に「それ、つらかったね」「そう感じたんだね」という言葉をかけてもらえた経験は、深いところに残る。😊

これはもちろん親子関係だけじゃなく、友人関係でも、恋愛でも、職場でも繰り返される。「理解されたい」の歴史は、生涯にわたって続くといっても過言じゃないと思います。

社会的動物としての人間と「共鳴の欲求」

人間は社会的な動物です、とよく言われます。ひとりでは生きられない生き物。

でも「社会的」ってどういうことかというと、単に集団の中にいるということじゃないと思うんですよね。人と人との間に、何らかの「共鳴」が生まれること——これが「社会的に生きている」ということの、より深い意味じゃないかと。

病気になったとき、人は治してもらいたいと同時に、「大変だったね」と言ってほしいと思う。医療の現場でも「話を聴いてほしい」という患者の欲求は非常に根強く、それに応えるための傾聴の専門家が求められるようになってきているそうです。

「わかってもらいたい」という欲求は、食欲や睡眠欲と同じくらい、人間の基本的なニーズに近いのかもしれません。

現代社会でこの欲求が強まっている背景

ちょっと話が広がりますが、現代って「承認」を得やすい社会になったんですよね。SNSを使えば、何十人・何百人からの「いいね」がもらえる。承認の量は、昔と比べものにならないほど増えた。

でも、それで「理解されている感」が増えたかというと……どうでしょう。

「いいね」は承認の形をしているけど、理解ではない。数十人から「いいね」をもらっても、「誰にも本当のことを話せていない」という感覚は消えなかったりする。

むしろ、承認がインフレした分だけ、深いところで「理解してほしい」という渇望が強くなっている、という側面もあるかもしれないですよね。


理解されないとき、人はどうなるのか

誤解されたときの深い傷

承認されないときと、誤解されたとき——どちらが傷つくか、と言われたら、多くの人は後者だと思います。

「すごくない」と言われるより、「あいつは悪意がある」と誤解されるほうが、ずっと深く刺さる。承認されないのは「評価の問題」ですが、誤解されるのは「存在の問題」に近いから。

「自分という人間を、ぜんぜん違うふうに見られている」——これは、ある種の「存在の否定」に似た感覚を引き起こします。だから誤解は、承認されないことより傷つく。

「どうせ伝わらない」と諦めるとき

「どうせ誰も分かってくれない」という気持ちが続くと、人は少しずつ「伝えること」を諦め始めます。

本音を言うのをやめる。感情を見せなくなる。「大丈夫です」という言葉が、ほぼ自動的に口から出てくる。

これはある意味で「防衛反応」なんですよね。理解されない痛みを繰り返し受けるより、最初から期待しないほうがいい——そう学習した結果。でもこの「諦め」が積み重なると、少しずつ自分の内側が空洞になっていく感じがある。

誰かに「どうせ」を感じさせてしまっていないか、ちょっと考えてしまいます。🤔


理解されることと、理解しようとすること

「わかってもらう」より先にできること

「理解されたい」という気持ちと向き合っていると、ある逆説に気がつきます。

理解されるためには、まず「自分が何を感じているか」を自分で分かっている必要がある。でも案外、自分の気持ちって、自分でもよく分かっていないんですよね。

「なんか嫌だ」「なんかモヤモヤする」——このレベルのまま相手に投げても、相手はなかなか理解できない。当たり前ですよね、自分でも分かっていないものを人に分かってもらうのは難しい。

「理解してもらう」ことの第一歩は、実は「自分を理解する」ことに近いのかもしれません。今自分が何を感じていて、何を求めていて、何が辛いのか——それを言語化しようとするプロセス自体が、理解への道のりの一部かもしれないですよね。

100%の理解は幻想かもしれない

少し厳しいことを言うと、他人に100%理解されることは、たぶんない

人はそれぞれ、独自の感情の世界を持っています。同じ出来事を経験しても、感じることは違う。私が「大変だった」と思うことを、別の人は「それくらい」と感じるかもしれない。逆もある。

ある心理学者の言葉を借りれば、「人は独特の心の世界をそれぞれが持っているから、全部を理解しようとしても、わかるはずがない」のです。

これは絶望じゃなくて、むしろ少し楽になれる視点だと思っていて。「100%わかってもらう」ことを目標にするから苦しくなる。「少しでも伝わればいい」くらいのゆるさのほうが、長続きするし、関係も深まりやすい気がします。


それでも「わかってほしい」と思うのは、なぜか

理解の欲求は、存在の確認かもしれない

最終的に「理解されたい」という気持ちの根っこには、何があるんだろう、と考えていました。

ひとつの仮説は、「理解される=自分がここに存在しているという確認」じゃないかということ。

承認は「あなたのやったことには価値がある」という評価です。でも理解は、「あなたというものが、ここにある」という確認に近い。結果や行動じゃなく、その人そのものを、一瞬でも「受け取られた」と感じること。

それが人を、ふっと楽にする。

難しい話を抜きにすると、「わかってもらえた」という感覚は、自分の存在を少し肯定してもらえた感覚に近いんじゃないかと思います。

少しだけわかってもらえたとき、人は生きやすくなる

完全に理解されなくていい。全部を分かってもらえなくていい。

でも、ほんの少しでも——「あ、この人は自分のことを受け取ろうとしてくれている」と感じる瞬間があると、不思議と孤独感が薄まる。「ここにいていい」という感覚が、ゆっくりと戻ってくる。😌

それは結局、理解を求めることが「コミュニケーションの欲求」じゃなく、もっと根本的な「存在の欲求」に近いからだと思います。

人は、誰かに理解されることで、自分の存在を確かめる。そのくらい、「わかってもらうこと」は人間にとって根っこの部分にある、ということなんじゃないでしょうか。


まとめ——「承認」と「理解」の間にあるもの

今回考えてきたことを、少しだけまとめてみます。

承認は「あなたのやったことには価値がある」というメッセージ。理解は「あなたというものを受け取った」というメッセージ。この二つは似ているようで、人の心に届く深さが違う。

承認されても満足できないことがある。孤独感が消えないことがある。「すごいね」より「わかるよ」が欲しくなることがある。それは、欲張りでも弱さでもなく、人間としてごく自然な「理解の渇望」なんだと思います。

そして、理解されることを求めながら、自分も誰かを理解しようとする。その往復のなかに、人と人との関係があるのかもしれない。

あなたは最近、「わかってもらえた」と感じた瞬間がありましたか? それは誰で、どんな場面でしたか?


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次回は「人はなぜ本音を隠してしまうのか——「本当のことが言えない」の正体を、一緒に考えてみる」について書こうと思います。

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