「すごいね」って言われても、どうもピンとこない。
褒められた瞬間、反射的に「いやいや、そんなことないですよ」と言ってしまう。なんとなく、自分のことを実際より低く見積もってしまう感覚、あなたにも覚えはありませんか?
わたしは長い間、それが「謙虚さ」だと思っていました。でも、ある時から少し疑い始めたんです。謙虚と自己過小評価って、ちゃんと違うものなんじゃないかな、と。
「自分なんて大したことない」——その感覚、なんだろう
褒められても素直に受け取れない、あの感じ
上司から「この件、よくやってくれたね」と言われたとき、正直なところどう感じますか?
素直に「ありがとうございます」と受け取れる人は、思ったより少ないかもしれません。「たまたまうまくいっただけ」「次は失敗するかもしれない」「自分よりもっとできる人がいる」——そういう声が、心の中でそっとざわめく。
わたし自身、仕事でそれなりに評価されたとき、喜ぶよりも先に「バレるかもしれない」と感じたことがあります。何がバレるんだろう、と今思うとちょっと謎なんですが(笑 とにかく自分が過大評価されている気がして落ち着かなかった。
この感覚、実は名前がついています。
自己評価と他者評価のズレはなぜ起きるのか
人は自分のことを、意外と正確に把握できていません。それは「謙虚じゃないから」でも「自信がないから」でもなく、もっと根本的な仕組みが関わっているようです。
他者から見える自分と、自分が認識している自分の間には、構造的なズレがある。しかもそのズレは、能力が高い人ほど大きくなる傾向があるというから、ちょっと皮肉な話です。
過小評価は「弱さ」じゃなく、脳の働きかもしれない
インポスター現象という名前がついていた 🔍
1978年にアメリカの心理学者が提唱した「インポスター症候群(インポスター現象)」という概念があります。インポスターとは、英語で「詐欺師」のこと。
つまり、「自分は本当は大したことないのに、まわりを騙しているような詐欺師みたいだ」という感覚のことです。成功を収めているのに、それを自分の実力だと認められない。「たまたま運が良かっただけ」「環境に恵まれただけ」と考えてしまう。
女優のエマ・ワトソンや、元アメリカ大統領夫人のミシェル・オバマもこの感覚を吐露していたといいます。「あの人たちでも?」と思うと、少し肩の力が抜けませんか。
ダニング=クルーガー効果の逆側にいる人たち
心理学に「ダニング=クルーガー効果」という現象があります。知識や経験が少ない人ほど、自分の能力を過大評価しやすいというもの。
で、その逆も起きます。知識や経験が豊富な人は、比較対象が増えるぶん、自分の足りない部分もよく見えてくる。「自分なんてまだまだだ」と感じやすくなる。
要するに、自分を過小評価しがちな人は、ものをよく知っていて、比べる軸をたくさん持っているから、そうなっている可能性がある。悪いことじゃないんです、本当は。
「利用可能性バイアス」——失敗の記憶が前に出てくる理由
脳には、「思い出しやすいことを重要だと感じる」という癖があります。心理学では「利用可能性バイアス」と呼ばれています。
過去に一度大きく失敗したことがあると、その記憶は鮮明に残りやすい。そしてその鮮明な失敗が、自分を評価するときに前面に出てくる。逆に、日常的なうまくいった経験は記憶の奥に沈みやすい。
だから「自分はダメだ」と感じるのは、実際に能力が低いからではなく、脳の記憶の引っ張り出し方がそうなっているからかもしれないんです。
育ってきた環境と、染みついた「低め設定」
比べられて育つと、自分の基準がズレていく
子どもの頃、「○○ちゃんはできるのに、あなたは」という言葉を聞いた経験はありませんか。これは、親が悪いとか育て方が間違っていたとか、そういう話ではなくて——ただ、比較の中で育つと、自分の基準がどこか外側に置かれていくような感覚になることがある。
「自分がどう感じるか」より「まわりとどう違うか」が判断の軸になっていく。その積み重ねが、自己評価を少しずつ下げていく可能性があります。
学校でも職場でも、わたしたちは常に誰かと比べられる環境の中にいます。そこに適応していくうちに、「自分はまだ足りない」が無意識のデフォルトになっていく。
謙遜を美徳にしてきた文化の中で 🌸
これは日本特有の話かもしれませんが、「出る杭は打たれる」という言葉があります。自己主張が強い人より、控えめな人が好まれやすい文化的な傾向がある。
謙遜は、関係を円滑にする知恵として機能してきた側面もあります。「自分はまだまだです」という言葉は、場の空気を和ませ、相手を立てる効果がある。でも、それをずっと続けていると、本当に「まだまだ」だと思い込んでしまうことがある。
言葉が思考を形作る、という側面はたしかにあって、「自分なんて」を繰り返し口にしていると、それが内側に染みていくのかもしれません。
関連記事:人はなぜ自己評価が低くなるのか——「どうせ自分なんて」の正体を、一緒に考えてみる
自分を正確に知ることなんて、できるのだろうか
哲学者たちも「自己認識」に首をかしげていた
「汝自身を知れ」という言葉は、古代ギリシャのソクラテスが残したとされています。数千年前から人は、自分自身を知ることを大事だと考えてきた。
でも、ソクラテス自身も「無知の知」——つまり「自分が知らないことを知っている」という逆説的な立場でした。人が自分を正確に認識することの難しさを、哲学者たちはずっと前から感じていたんです。
自分のことは、案外自分にいちばんわかりにくいのかもしれません。だとすれば、過小評価も過大評価も、どちらも「正確な自己認識の難しさ」という同じ問題の、別々の表れ方なんじゃないでしょうか。
「知っている」と「見えている」は別の話
鏡で見える自分の顔と、写真で見える自分の顔が、ちょっと違って見えることがあります。あれも、「自分が認識している自分」と「他者から見える自分」のズレを示している気がします。
どちらが本当の顔か、という問いに答えは出ません。きっと、どちらも本当の顔でもあり、そうでもある。
自己評価もたぶん、そういうものなんじゃないかなと、最近は思っています。正確な自己像なんて、誰にも見えていない。わかっているのは、「だいたいのところ」だけ。
過小評価を「直す」より、付き合い方を考えてみる
記録に頼る、という意外なヒント
認知心理学の観点からひとつ面白いアドバイスがあります。「記憶ではなく、記録を頼りにする」という考え方です。
さっき話した「利用可能性バイアス」は、思い出しやすい記憶に引っ張られる傾向です。だったら、思い出しやすさに頼らなければいい。できたこと、うまくいったこと、ちゃんとやり遂げたことを、小さなことでも書き留めておく。
それを見返すと、「あ、案外できてるな」という発見がある。感情で評価するのではなく、事実として眺める。なんか地味なんですけど、これが意外と効くんです 😌
小さな「できた」を積み上げることの意味
「自信があるからチャレンジできる」のではなく、「チャレンジするから自信が生まれる」という視点があります。
待っていても、自己評価はなかなか上がらない。それより、少し小さな一歩を踏み出してみる。そしてそれを「できた」として記録する。その積み重ねが、じわじわと自分の基準を更新していく。
大きな自信を一気に持とうとしなくていい。「今日はこれが、ちゃんとできた」を一個ずつ足していく感覚で、たぶんいい。
あなたにとっての「ちょうどいい自己評価」って何だろう
完璧な自己評価より、動ける自己評価を
過小評価を「治す」必要があるかどうかは、ちょっと難しい問いです。
過小評価があるから向上心が生まれている面もある。謙虚さが人間関係の潤滑油になっている面もある。「過小評価の人はこんな特徴があって、こう克服すればいい」と一律に整理できるほど、人間の心はシンプルじゃない気がします。
ただ、ひとつ言えそうなのは——過小評価が、やりたいことを始める前から「どうせ無理」と諦めさせているなら、それはちょっともったいないかもしれない。「完璧な自己評価」は必要ないけれど、「動ける自己評価」くらいはあっていい。
大きく正確である必要はなくて、「ひとまず踏み出せる」くらいがちょうどいいのかな、と思っています。
おわりに——あなたは、自分のことを何点だと思いますか?
100点満点で自分を採点したとき、あなたはいくつをつけますか?
この問いに対して、「100点」と即答できる人はほぼいないと思います。でも、「30点くらい」と答える人と「70点くらい」と答える人では、その後の選択肢が変わってくるかもしれない。
正確な点数なんて出せないし、出さなくていい。ただ、「どうせ自分なんて」と点数をつける前に、ちょっと待ってみる習慣——それだけで、何かが変わることがあるかもしれません。
あなたは、自分をどのくらい小さく見積もっていると思いますか?🤔


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