人はなぜ羨ましいという気持ちが消えないのか——「あの人だけいいな」の正体を、一緒に考えてみる

スポンサーリンク
人生のぎもん

朝、スマホを開く。友人が旅行に行っている写真。同期が昇進した投稿。なんとなく綺麗な部屋に暮らしている誰か。——気づいたら、ため息をついていた。

「羨ましい」という気持ち、ありますか?

たぶん、「ある」と答える人の方が多いんじゃないかと思います。そしてたいていの場合、その感情は「いけないな」「器が小さいな」と思いながらも、なかなか消えてくれない。

今回は、そんな羨ましさの正体について、一緒にゆるく考えてみたいと思います。


スポンサーリンク

羨ましいという気持ち、あなたにもありますか?

朝起きてスマホを開いたら、もう始まっている

以前の自分を思い返すと、羨ましいという感情を覚えた瞬間って、だいたいSNSを見ているときでした。

「あ、この人また海外行ってる」「え、もう家買ったの?」「この子、仕事もできるし結婚もして、なんかいいな……」

特別に強い悪意があるわけじゃない。ただ、なんとなく胸の奥がじわっとする。あの感覚、わかりますか?

しかも厄介なのは、「こんなことを思ってはいけない」と頭ではわかっていても、感情がそれを聞いてくれないということです(笑)「羨ましいと思うな」と自分に言い聞かせるほど、余計に意識してしまう。まるで「白いクマのことを考えないようにしてください」と言われると、頭の中が白いクマだらけになるあの現象みたいに。

「消したい」と思うほど、消えない理由

「比べるのをやめれば楽になれる」「自分の幸せに集中すればいい」——そういうアドバイスは山ほどあります。正直、言っていることはわかる。

でも、消えないんですよね、これが。

それはなぜなのか。じつはここには、かなり深い理由があるんじゃないかと思っています。


そもそも、なぜ人は羨ましいと感じるのか

比較は、人間の本能に組み込まれている

心理学の世界に「社会的比較理論」という考え方があります。1954年にレオン・フェスティンガーという心理学者が提唱したもので、人間は自分の状況を評価するために、他者と比較することを本能的に行うというものです。

これ、べつに現代人だけの話じゃなくて、むかしから人間に備わっている機能らしい。自分が「どのくらい上手いのか」「どのくらい豊かなのか」を測るために、周囲の人間を参照する。比べることで、自分の立ち位置を確認する。

つまり、比較は「性格の悪さ」でも「心の弱さ」でもなく、人間がもともと持っている認知の仕組みなんですね。それを知ったとき、ちょっとほっとした記憶があります。「自分だけじゃないんだ」って。

「近い人」への羨望が、いちばん苦しい理由

ところで、羨ましさって、遠い存在には感じにくいと思いませんか?

たとえば、宇宙飛行士や世界的な起業家が成功しても、「すごいな」とは思っても「羨ましい」という感じは薄い。でも、同い年の同期が自分より先に昇進すると、じわじわと胸が痛くなる。

社会的比較理論によれば、人は自分と「似ている人」「近い立場の人」と比べるときに、最も強い感情を感じるといいます。

遠い存在は比較の対象になりにくい。でも近い人は、「もしかしたら自分もなれたかもしれない」という思いが生まれやすい。だから苦しい。

SNS時代に羨望が激しくなったのはなぜか

昔の人は、比べられる相手が限られていました。せいぜい同じ村の人、同じ職場の人。でも今は、世界中の「うまくいっている誰か」が、スマホの画面に次々と流れてくる。

しかもSNSに流れてくる情報は、ほとんどが「その人の良い部分のハイライト」です。旅行中の写真、昇進の報告、綺麗な食事。日常の疲れや悩みは、あまり投稿されない。

「他人のハイライト」と「自分の日常」を比べ続ければ、羨ましさが膨らむのは当然かもしれません。これは意志の力でどうにかなる話じゃなくて、構造的な問題でもある。


羨ましさはどこから生まれるのか——感情の構造を考えてみる

羨ましさは「自分の欲しいもの」を映す鏡

羨ましさって、よく考えてみると不思議な感情で、「自分が求めているもの」がないと成立しないんですよね。

誰かが高級車を持っていても、車にまったく興味がない人は羨ましいとは感じない。でも「いつか車が欲しいな」と思っている人は、じんわりと胸に来る。

つまり、羨ましいと感じた瞬間というのは、「ああ、自分はこれが欲しいんだな」という気持ちが可視化された瞬間でもあります。鏡のようなものかもしれない。

自分でも気づいていなかった欲望や願望が、他者を通してふと姿を見せる——そう考えると、羨ましさはただのネガティブな感情じゃなくて、自分の内側を教えてくれるサインでもあるのかなと思います。

「羨望」と「嫉妬」は、似ているようで少し違う

日本語ではどちらも「うらやましい」「ねたましい」とまとめられがちですが、心理学的には少し区別されることがあります。

羨望は、相手の持っているものを「自分も欲しい」と思う感情。一方、嫉妬は「相手からそれを奪いたい、あるいは相手がそれを失えばいい」という感情を含むことがある。

どちらも「持っていない自分」と向き合うことから生まれますが、羨望は比較的、自分の内側に向かう感情です。嫉妬になると他者への攻撃性が生まれやすくなる。

羨ましいと感じた気持ちが、だんだん「あの人だけ、ずるい」という方向に育っていくとき——それは羨望が嫉妬に変わりかけているサインかもしれない、というのは少し覚えておく価値があるかもしれません。

羨ましさが「嫉妬」に変わるとき

もう少し正直に自分の話をすると、羨ましさが一番苦しかったのは、「その人を好きなのに、羨ましい」というときでした。

仲のいい友人が、自分の欲しかったものを手に入れたとき。喜んであげたい、でも胸の奥に何かが引っかかる。「おめでとう」と言いながら、ちょっとだけ虚しくなる。そのふたつの感情が同時にあることの、しんどさ。

あの感覚は、今でも思い出すとちょっと苦くなります。「自分って小さいな」と思ったものです。でも今思うと、それはむしろ、その友人との関係に「本気でいた」ということの裏返しでもあったかな、と。どうでもいい相手には、そもそも羨ましさも湧かない。


完全には消えない——それが人間というものかもしれない

仏教や哲学は「羨望」をどう考えてきたか

仏教では、人間の苦しみの根本として「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」という三毒が挙げられます。貪は欲、瞋は怒り、痴は無知。羨ましさや嫉妬心は、この「貪」と深く結びついています。

仏教的には、欲望そのものをなくすことで苦しみから解放される——という方向性がありますが、正直なところ、それは修行を積んだ僧侶でも難しい話です。「欲をゼロにせよ」というのは、普通に生きている人間にはなかなかハードルが高い。

ストア哲学では、「コントロールできるものとできないものを区別する」という考え方があります。他者の状況は自分にはコントロールできない。でも、それに対して自分がどう反応するかは、少し変えられるかもしれない。

どちらの思想も「羨ましさを完全に消せる」とは言っていないんですよね。感情をゼロにするのではなく、感情との付き合い方を変えるというニュアンスが、個人的にはちょっとホッとします。🌿

「消えない」を前提にした方が、ラクになることもある

「羨ましいと思わないようにしよう」と頑張るのって、けっこうエネルギーを使います。

でもある時期から、「消えないなら、消えなくていいか」と思い始めてから、少しだけ楽になりました。

羨ましさは湧く。それは人間として自然なことだ。問題は「湧くかどうか」じゃなくて、「湧いた後にどうするか」——そう考えると、感情を否定しなくていい分、心が少し軽くなる気がしています。

「あー、また羨ましいと思っちゃった」くらいの距離感で、自分の感情を眺められるようになると、羨ましさに振り回される時間が減ってくる感じがします。


羨ましさと、どう付き合っていくか

感情を否定せず、「自分の信号」として読む

羨ましさを感じたとき、それを「自分はどんな信号を受け取っているのか」と少し観察してみるのが、個人的には一番しっくりきた付き合い方です。

「誰かの自由な働き方が羨ましい」——→ 今の自分は、どこかで縛られていると感じているのかもしれない。 「誰かの人間関係の豊かさが羨ましい」——→ 自分はつながりに飢えているのかもしれない。

そういう「翻訳」をしてみると、羨ましさが「自分への問い」に変わってくる。攻め立てる感情から、対話できる感情になる、というか。

全部がそう翻訳できるわけじゃないし、ただ単純に「あー、羨ましいな〜」で終わる日もあって、それはそれでいいと思っていますが(笑)

羨ましさが「自分が本当に欲しいもの」を教えてくれることもある

少し話が変わりますが、羨ましさの感情のおかげで、自分が何を大切にしているかに気づいたことが何度かあります。

「あの人みたいに、誰かに喜ばれる仕事がしたい」と感じたとき、自分が仕事に求めているのは給料よりも「誰かの役に立っている実感」なんだなと気づいたり。「あの人の暮らしが羨ましい」と思ったとき、それは物があることじゃなくて「余白のある時間」が欲しいのだと気づいたり。

羨ましさは、自分でも見えていなかった願望を、ちょっとだけ表に連れ出してくれることがある。そう考えると、完全に「無駄な感情」とも言い切れないなと思っています。🪞


まとめ——消えなくていい、でも振り回されなくてもいい

「羨ましい」という気持ちは、今日も、たぶん明日も湧いてくると思います。

それは人間の比較本能であり、SNS時代の構造的な問題でもあり、そして自分が何かを求めているというサインでもある。完全に消えない理由は、ちゃんとある。

仏教も哲学も、「欲をゼロにせよ」とは言うけれど、実際のところ、感情をゼロにするのは人間には難しい。だとしたら、羨ましさを「消すもの」ではなく、「付き合っていくもの」として捉え直すのが、少し現実的な気がしています。

羨ましさが湧いたとき、「またか」と嫌いにならずに、「ああ、今の自分はこれを欲しいんだな」とちょっと観察してみる。それだけでも、感情に飲み込まれる感じが変わってくるかもしれません。

あなたは最近、何かを羨ましいと感じましたか? そのとき、その感情はあなたに何を教えてくれていたんでしょうか。


こんな記事も書いています

次回は「人はなぜ劣等感を持つのか」について書こうと思います。 羨ましさとも嫉妬とも少し違う、あの「自分はダメだ」という感覚の正体——次回、一緒に考えてみましょう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました