なんとなく幸せじゃない、って感じるのはなぜだろう?

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人生のぎもん

「今日も別に、悪いことはなかった。でもなんか、幸せじゃないんだよな」

そういう夜、ありませんか。

仕事は普通にこなした。ご飯もおいしかった。好きなドラマも見た。それなのに、なんとなくぼんやりした不満が胸のあたりにある。幸せじゃないというほど重くもないんだけど、幸せとも言い切れない、あの感覚。

わたしもそういう夜が、ちょこちょこあります。「あれ、わたしって幸せなのかな?」って、お風呂の中でぼーっと考えたりする。そして答えが出ないまま湯船から出て、なんとなく寝て、次の朝を迎える。

この記事では、その「なんとなく幸せじゃない」という感覚をもう少しだけ掘り下げてみたいと思います。答えを出すというより、一緒にゆっくり考えてみる感じで読んでもらえたらうれしいです。


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そもそも「幸せ」って、どんな感覚のことだろう?

「幸せ=嬉しい」じゃないかもしれない

まず思うのは、「幸せ」ってそんなにはっきりした感情じゃないよな、ということです。

嬉しいとか、楽しいとか、興奮するとか——そういう感情は比較的わかりやすい。でも「幸せ」はもっとぼんやりしていて、あとから振り返ってようやく「あのとき幸せだったな」と気づくことの方が多い気がします。

たとえば、旅行に行くとき。行く前はすごく楽しみで幸福感があるのに、いざ旅先に着いてみると荷物は重いしちょっと疲れてるし、思ったほどテンションが上がらなかったりする。逆に、帰ってから写真を見て「あー、楽しかったな」とじんわり感じたりする。

幸福感というのはなぜか、「今まさに感じるもの」よりも「期待」や「回顧」の中にあったりします。これは心理学でも指摘されていることで、感情はもともと「行動を促すためのシグナル」なので、すでに満たされている状態だと特にスイッチが入らないんだとか。なるほどなとも思うし、なんだか切ないなとも思う。

「幸せのハードル」は時代とともに上がっている?

ちょっと視野を広げると、「幸せじゃない感覚」は現代特有のものかもしれない、という気もしてきます。

物がある。食べられる。安全に眠れる。それだけで十分なはずなのに、わたしたちはそれだけでは「幸せ」と感じにくくなっています。それはおかしいことじゃなくて、選択肢が増えた時代の、ある意味ごく自然な副作用なんだろうと思います。

「もっとよい選択があったかも」という後悔は、選択肢が多ければ多いほど生まれやすい。何でも手に入る時代に生きているわたしたちは、その分、満たされない感覚も抱えやすくなっているのかもしれません。


なぜ「なんとなく」幸せじゃないのか——よくある理由を探してみる

比較が、知らぬ間に心を削っている

「なんとなく幸せじゃない」の正体として、もっとも多いのが「人との比較」だと思います。

友人のSNSを見たら素敵な旅行の写真。同期が昇進した。あの人は素敵なパートナーがいる。自分には、それがない。

比べているつもりはないのに、なんとなく目に入って、なんとなく凹む。それが積み重なると「自分の人生はなんかぱっとしないな」という感覚になる。

SNSの利用時間が長いほど気分の落ち込みが大きくなるというデータもあって、これはわりと有名な話です。あのキラキラした投稿は、みんなの日常の「ベストショット集」であって、現実の全部じゃない——頭でわかっていても、心はそう簡単には割り切れないんですよね。😔

「理由のない不満」は、慣れの産物かもしれない

もうひとつ思うのは、「慣れ」の問題です。

人間というのはすごくて、どんな環境にも慣れてしまいます。嬉しいことも、心地よいことも、しばらくすると「当たり前」になって、感動が薄れていく。これを心理学では「快楽の踏み車」と呼んだりします。

仕事が決まったときは嬉しかった。引っ越しをしたときは新鮮だった。でも今は、それが「普通」になっている。

幸せな状態が続いているのに、幸せを感じにくくなる。それは決して「あなたがおかしい」んじゃなくて、人間がそういう構造をしているということだと思います。

「やりたいこと」が、ぼんやりしている

もうひとつ、大事かもと思うのが「目的感の薄れ」です。

何かを目指しているとき、人はわりと生き生きします。資格の勉強、新しい趣味、旅の計画——「これをやりたい」という気持ちがあると、日常に少し色がつく気がします。

逆に、「特にやりたいことも、なりたいものも、ない」という状態が続くと、毎日が「こなすもの」になってしまって、なんとなくぼんやりした不満が漂い始める。

深刻な夢がなくていい。大それた目標じゃなくていい。ただ「ちょっと気になること」があるだけで、だいぶ違う気がします。


わたし自身も、ずっと「なんとなく」の中にいた

「幸せなはず」だと思っていた時期

正直に書くと、わたしには「客観的には恵まれているはずなのに、なぜかすっきりしない」という時期が何年かありました。

お金に困っているわけじゃない。健康だ。友人もいる。なのになんか、満たされていない。その感覚が自分でもよくわからなくて、「欲張りなのかな」「弱いのかな」と思ったりもしました。

今振り返ると、あのころのわたしは「自分が何を大事にしているか」をちゃんと知らなかったんだと思います。世の中が「これが幸せ」と言うものを、なんとなく正解として採用していた。でも、それはわたしにとっての幸せじゃなかった。

「幸せの答え合わせ」をやめたら、少し楽になった

変わったきっかけは、ちょっとしたことでした。

「幸せかどうか」を考えるのをひとまずやめて、「今、何をしているときが好きか」だけ考えるようにしたんです。

人と話しているとき。何かを作っているとき。ぼーっと散歩しているとき。そういう小さい「好きの断片」を集めていったら、なんとなくモヤが晴れてきた気がしました。

たぶんわたしは、「幸せを探していた」のではなく、「幸せを確認しようとして疲れていた」んだと思います。


「幸せじゃない感覚」と、どう付き合うか

感じること自体を、否定しなくていい

「なんとなく幸せじゃない」という感覚を感じたとき、多くの人は「こんなことを思っちゃいけない」「贅沢だ」と自分を責めてしまいます。

でも、その感覚を感じること自体は、悪いことじゃないと思います。むしろ、それは「今の自分の状態に、ちゃんと気づいている」ということでもあります。

感じてもいい。ただ、その感覚に長々と寄りかかりすぎる必要もない。ちょっと眺めて、「ふーん、そういう気分か」くらいで流してみるのも、ひとつの付き合い方です。

「幸せのものさし」を借りてきていないか、問い直してみる

もうひとつ試してみてほしいのが、「自分のものさしを確認する」という作業です。

今の「幸せじゃない感覚」は、誰かのものさしで測っていませんか?

世間的な「いい暮らし」「成功した人生」「幸せな家族」——そういうイメージと自分を比べて、届いていないと感じているとしたら、それはもしかするとそもそも自分には関係ないものさしかもしれません。

「わたしにとって、本当に大事なことって何だろう?」

この問いは、すぐに答えが出るものじゃないけれど、ちょっと考えてみるだけで、景色が変わることがあります。🌿

「今、ちょっとだけいいこと」を探してみる

あと、これはかなりシンプルな話なんですが、「小さくていいこと」に気づく習慣は、意外と効きます。

コーヒーがおいしかった。今日の空がきれいだった。久しぶりに好きな音楽を聴けた——そういうレベルでいい。

幸福感というのは、どうやら「大きな出来事」よりも「小さな積み重ね」に影響される部分が大きいようです。ハーバード大学が75年以上かけて行った大規模な追跡調査でも、人生の満足度を最も左右するのはお金や地位ではなく、日々の人間関係の質だったという結果が出ています。

大きな何かを手に入れなくても、今日のどこかに「ちょっとよかったこと」はある。それを意識的に拾っていくだけで、なんとなくのモヤはずいぶん変わってくる気がします。


まとめにかえて——あなたにとって「幸せ」って、どんな感覚?

「なんとなく幸せじゃない」という感覚は、弱さじゃないと思います。むしろそれを感じられるのは、ちゃんと自分の内側に耳を傾けているということかもしれない。

幸せじゃない理由は、人によってさまざまです。比較しすぎているのかもしれない。慣れてしまっているのかもしれない。自分のものさしを失っているのかもしれない。それとも、ただちょっと疲れているだけかもしれない。

正直、わたしにもよくわかりません(笑)。「これが答えです」と言い切れるほど、人間の感情は単純じゃないから。

ひとつだけ言えるとしたら、「幸せかどうか」を白黒で判定しようとしなくていい、ということです。グレーでいい。曖昧でいい。「なんとなく幸せじゃないけど、なんとなくそれなりに生きてる」くらいで、案外悪くないのかもしれない。

最後にひとつだけ問いかけさせてください。

あなたが最後に「ああ、よかったな」と感じたのは、どんな瞬間でしたか?🕊️

関連記事:幸せって何だろう——「なんとなく満足」の正体を考えてみた

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