「いいね」の数を気にしてしまう自分が、なんか嫌だな——。
そう思ったこと、ありませんか?
投稿してから5分後にスマホを確認して、また10分後に確認して。「別に気にしてないし」と思いながら、やっぱり気になる。そのくり返し。正直に言うと、わたしもそういう時期がありました。
「承認欲求が強い人ってちょっと痛いよね」みたいな空気、ありますよね。でも冷静に考えると、「誰かに認めてほしい」って気持ちは、たぶん人間なら全員持ってる。子どもが「見て見て!」って言うのも、大人が昇進を嬉しいと感じるのも、根っこは同じじゃないかなと、最近思うんです。
じゃあ、そもそもなぜ人は承認欲求を持つのか。「認められたい」のは弱さなのか、それとも人間としてごく自然なことなのか。今日は一緒にゆるく考えてみたいと思います。
承認欲求ってそもそも何だろう?
「認められたい」は欲求のかなり上位にある
心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求を5段階のピラミッドで整理しました。一番下が「食べたい・寝たい」という生理的な欲求で、上に行くほど精神的なものになっていく。
承認欲求はそのピラミッドの下から4番目。「安全でいたい」「どこかに所属していたい」という欲求をクリアした先にある、けっこう高次な欲求です。
「高次」と聞くと難しそうですが、要するに生きていくための基本がある程度満たされた人間が、次に強く求めるものということ。衣食住が安定した現代の日本で、多くの人が承認欲求を意識するのは、ある意味で自然なことなのかもしれません。
承認欲求には2種類ある
「他者承認」と「自己承認」という2つのタイプがあります。
他者承認はわかりやすい。SNSのいいね、上司からの評価、友人の羨望……。誰かの反応が自分の価値を証明してくれる、という感覚ですね。
一方、自己承認は「自分で自分を認める」ということ。「今日はよく頑張った」「これは自分らしい選択だった」という、内側からくる満足感です。
面白いのは、他者からどんなに認められても、自分という人間が認めてくれなければ、それだけでは幸せになれないという点。「いいね」が1000件ついても、なんとなく空虚な感じがする——そういう経験がある方、いるんじゃないでしょうか。
人はなぜ「認めてほしい」と思うのか?
集団の中で生きてきた、という歴史がある
人類はずっと、集団の中で生きてきました。一人では獲物も獲れないし、外敵にも対処できない。集団に受け入れられていることが、生存に直結していた。
「群れに認められている」という感覚は、昔の人間にとって文字通り命綱でした。逆に、集団から排除されることは死を意味した。だから脳は「認められる=安全」という回路を持つようになった——という考え方があります。
現代ではさすがにSNSで無視されても死にませんが😅、感情の回路はそう簡単には書き換わらない。「いいねがゼロだとつらい」という感覚は、そういう遠い記憶が関係しているのかもしれない。
「自分が存在している」という確認
ちょっと哲学っぽいことを言うと、人間は他者の目を通してしか、自分の存在を実感しにくい生き物だという考え方があります。
鏡で顔を確認するように、他人の反応や評価を通じて「ああ、自分はここにいるんだ」「こういう人間なんだ」と感じる。誰とも関わらず、誰にも認識されない状態が続くと、自分という存在が揺らいでくる感覚——なんとなくわかる気がしませんか?
承認欲求は、「自分が存在することへの確認」でもあるのかもしれません。
比べずにはいられない、という現代の問題
そして現代にはSNSがある。
あの人の旅行写真、あの人の昇進報告、あの人の素敵な暮らし。見なくてもいい情報が、スクロールするたびに流れてくる。比べるつもりがなくても比べてしまう。劣等感が積み重なると、「もっと認めてほしい」という欲求が強くなる——という悪循環が生まれやすい。
現代の1日の情報量は、江戸時代の1年分とも言われます。それだけ「他者との比較」にさらされているわけで、承認欲求が強まりやすい環境にいるのは、ある意味しかたない部分もあると思います。
よく聞く3つの考え方
マズローの欲求段階説:承認欲求は自然なもの
前述のとおり、マズローの理論では承認欲求は人間にとって普遍的な欲求として位置づけられています。「認められたいなんて子どもっぽい」と思う必要はない、というわけです。
ただマズローは、低いレベルの他者承認(いいねや地位)にこだわりすぎることには警告を発していました。高いレベルの自己承認——自分の能力や信念への信頼感——を育てることが大切だと。
アドラーの視点:他者の評価に生きるな
一方、心理学者アルフレッド・アドラーは、承認欲求に依存することを強く批判しました。「他人に認められるために生きることは、他人の人生を生きること」というわけです。
アドラーの言いたいことは「他者承認をゼロにしろ」ではなく、承認欲求に自分の行動を支配させるなということだと思います。認められたら嬉しい、でもそれだけが目的じゃない——そういうバランス感覚でしょうか。
実は「社会をつなぐ力」でもある
面白いなと思う視点があって、承認欲求は人間関係の質を高める力にもなる、という話。
他者から認められたよろこびを知ると、今度は自分も他者を認めようとする気持ちが育つ——という循環です。「承認欲求が強い人」というとネガティブに聞こえますが、適度に満たされることで他者への共感や優しさも生まれる、という見方もできる。
「認めてほしい」は、人と人をつなぐ糸の一本なのかもしれません。
正直なところ、わたしも苦労しました
SNSのいいねに振り回されていた頃
数年前、ちょっとSNSに力を入れていた時期がありました。投稿するたびにいいね数を気にして、反応が薄いと「この投稿、つまらなかったかな」とへこんで。
今思うと、かなりエネルギーを無駄遣いしてましたね(笑)。「認められたい」という気持ち自体は悪くないんだけど、承認の権限を全部他人に渡してしまっていたんだなと。
自分の投稿の価値を、他人が決めている状態。それはちょっと、しんどい。
「自分が認める」という視点に切り替えて
あるとき「これ、自分が楽しいと思うかどうかで判断しよう」と意識を変えてみました。他人がどう反応するかじゃなく、自分がこれを出してよかったと思えるか。
いいねがゼロでも「これは自分らしかった」と思えるものと、いいねが100ついても「なんか違う」と感じるもの——比べてみると、意外と前者のほうが満足感が高かったりする。
「他者に認められる」より「自分が認める」ほうが、地面がしっかりしている感じがするんですよね。
承認欲求と上手く付き合うためのヒント
答えではないんですが、「こう考えると少しラクになるかも」という材料をいくつか。
①「認められたい」を悪者にしない
そもそも、承認欲求を持っていることを責める必要はないと思います。これは人間の自然な欲求で、なくすことはできないし、なくす必要もない。「承認欲求が強い自分はダメだ」と思うより、「そうか、今わたしは認められたいんだな」と観察する感じで受け取ってみると、少し距離が生まれる気がします。
②承認の「引き渡し先」を意識する
誰からの承認なのか、どんな承認なのか——これを少し意識してみる。SNSの不特定多数からのいいねより、信頼できる1〜2人からの「わかる」のほうが、心に刺さることがありませんか?
承認欲求を「薄めて広く集める」より「濃く少数から受け取る」ほうが、実は満たされやすいかもしれない。
③「自己承認」を少しずつ育てる
これが一番地道で、でも一番効く気がすること。
今日ちゃんとやったことを、自分でちゃんと認める。他人の評価を待たずに「これでよかった」と自分に言う。習慣的に小さな自己承認を積み重ねていくと、他者からの承認に揺さぶられにくくなる——らしいです。らしいというのは、まだ修行中だからです(笑)。
まとめに代えて:「認めてほしい」という声に、どう向き合うか
「人はなぜ承認欲求を持つのか」——いろんな角度から見てきましたが、結論として言えるのは、それが人間としてごく自然な欲求だということです。
集団の中で生き延びてきた歴史、他者の目で自分を確認するという習性、社会の中でつながりを求める本能。承認欲求は、そういう人間の「らしさ」の一部でもある。
問題は欲求の強さより、それをどこに向けるか、なのかもしれない。
あなたにとって「本当に認められたい相手」は誰ですか?そして「最後に認めてほしい自分」って、どんな自分なんでしょうか。
ちょっとだけ、考えてみてもいいかもしれません。


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